色々人生と学び

大人の学びシリーズ その8 アドラーから紐解く「親の期待を満たそうとする子供」

皆さん、アドラー心理学って聞いたことありますでしょうか?

心理学の三大巨匠といえば、フロイト、ユング、アドラーとして有名ですね。

今日はまず、そんなアドラー心理学の中で、必ず取り上げられる「承認欲求の否定」について話します。

承認欲求(しょうにんよっきゅう)とは、「他者から認められたい、自分を価値ある存在として認めたい」という願望である、とWikipediaに記載があります。

アドラー心理学では、この承認欲求というものを否定しているのです。

大ベストセラー「嫌われる勇気」の著者である岸見一郎先生曰く、

  ある小学校の話で、廊下にゴミが落ちています。ただ拾って捨てれば良いだけなのですが、褒められて育った子というのは、「自分がゴミを捨てているところを他の人が見てくれているかを確認する」

誰か見てくれてるな、と思ったらゴミを捨てる。誰も見ていなければ、素通りしてしまう。

 
これは賞罰教育という、褒めて育てるやり方に関係すると言われています。そしてこれが行き着くところ、人の顔色を伺う子供に育ってしまう。これからする行為が適切か自分で判断できない子になってしまう。

実は士心塾に通ってくる子たちの中でも、明らかに、親の顔色を伺っている子たちがいます。親に怒られたくないからやる。親をがっかりさせたくないからやる。親の期待を満たすためにやる。

これは非常に難しい部分です。親としては本人の為にと思ってやっていても、子供は親の期待を満たすためにやっているのですから。

ここで出てくる、アドラーの心理学で非常に重要な項目があります。それは「課題の分離」というものです。

「その選択の結果、責任を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えます。もしそれがあなた自身でないのであれば、その課題には介入しません。

これは親と子供の関係でも同様です。親が想い描く良き人生と、子供本人が過ごしていき感じていく良き人生は同じものとは限らないのです。

これが行き着く表現として、「他者の人生を生きる」というものにつながってしまいます。

大ベストセラー「嫌われる勇気」の中で、哲人青年のやりとりがあります。私自身、指導者として、そして皆さまと同じような子供を持つ親として、大きな学びに直結するパートがありますのでご紹介します。

   哲人)たとえば、なかなか勉強しない子どもがいる。授業は聞かず、宿題もやらず、教科書すらも学校に置いてくる。もしもあなたが親だったら、どうされますか?

 

   青年)もちろんあらゆる手を尽くして勉強させますよ。塾に通わせるなり、家庭教師を雇うなり、場合によっては耳を引っぱってでも、それが親の責務というものでしょう。現に私だってそう育てられましたからね。その日の宿題を終えるまで、晩ご飯を食べさせてもらえませんでした。

 

   哲人)ではもうひとつ質問させてください。そうした強権的な手法で勉強させられた結果、あなたは勉強が好きになりましたか?

 

   青年)残念ながら好きにはなれませんでしえた。学校や受験のための勉強は、ルーティーンのようにこなしていただけです。

 

   哲人)わかりました。それでは、アドラー心理学の基本的なスタンスからお話ししておきます。たとえば目の前に「勉強する」という課題があったとき、アドラー心理学では、「これは誰の課題なのか?」という観点から考えを進めていきます。

 

   青年)誰の課題なのか?

 

   哲人)子供が勉強するのかしないのか。あるいは友達と遊びに行くのか行かないのか。本来これは「子どもの課題」であって、親の課題ではありません。

 

   青年)子どもがやるべきこと、ということですか?

 

   哲人)端的にいえば、そうです。子どもの代わりに親が勉強しても意味がありませんよね?

 

   青年)まあ、それはそうです。

 

   哲人)勉強することは子どもの課題です。そこに対して親が「勉強しなさい」と命じるのは、他者の課題に対して、いわば土足で踏み込むような行為です。これでは衝突を避けることはできないでしょう。われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。

 

   青年)分離して、どうするのですか?

 

   哲人)他者の課題には踏み込まない。それだけです。

 

   青年)・・・それだけですか?

 

   哲人)およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと-あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること-によって引き起こされます。課題の分離ができるだけで、対人関係は激変するでしょう。

 

   青年)ううむ。よくわかりませんね。そもそも、どうやって「これは誰の課題なのか?」を見分けるのです?実際の話、わたしの目から見れば、子どもに勉強させることは親の責務だと思えますが。だって、好きこのんで勉強する子供なんてほとんどいないのですし、なんと言っても親、保護者なのですから。

 

   哲人)誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えてください。

もし子どもが「勉強しない」という選択をしたとき、その決断によってもたらされる結末- たとえば授業についていけなくなる、希望の学校に入れなくなるなど- を最終的に引き受けなければならないのは、親ではありません、間違いなく子どもです。すなわち勉強とは、子どもの課題なのです。

 

   青年)いやいや、まったく違います!そんな事態にならないためにも、人生の先輩であり、保護者でもある親には「勉強しなさい」と諭す責任があるのでしょう。これは子どものためを思ってのことであって、土足で踏み込む行為ではありません。「勉強すること」は子どもの課題かもしれませんが、「子供に勉強させること」は親の課題です。

 

   哲人)確かに世の親たちは、頻繁に「あなたのためを思って」という言葉を使います。しかし、親たちは明らかに自分の目的- それは世間体や見栄かもしれませんし、支配欲かもしれません- を満たすために動いています。つまり、「あなたのため」ではなく「わたしのため」であり、その欺瞞を察知するからこそ、子どもは反発するのです。

 

   青年)じゃあ、子供がまったく勉強していなかったとしても、それは子どもの課題なのだから放置しろ、と?

 

   哲人)ここは注意が必要です。アドラーの心理学は、放任主義を推奨するものではありません。放任とは、子どもが何をしているのか知らない、知ろうともしない、という態度です。そうではなく、子供がなにをしているのか知った上で、見守ること。勉強についていえば、それが本人の課題であることを伝え、もしも本人が勉強したいと思ったときにはいつでも援助する用意があることを伝えておく。けれども、子どもの課題に土足で踏み込むことはしない。頼まれもしないのに、あれこれ口出ししてはいけないのです。

中略

   哲人)ある国に「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」ということわざがあります。・・中略・・本人の意向を無視して「変わること」を強要したところで、後で強烈な反動がやってくるだけです。

 

   哲人)自分自身を変えることができるのは、自分しかいません。

 

私自身、親として、指導者として、日々学びの連続です。

環境を与え見守っていく大切さ。

親自身が「自らのため」に「あなたのため」と子供に言う、欺瞞を排除する大切さ。

ご家庭で勉強をしない、という保護者からのご意見は多数いただいています。我々ができること。それは、士心塾に通うそんな子どもたちをしっかりと成長させ、みずから「水を呑ませる」。要は結果をださせ、自分で自分を変えてもらう。自分で結果を認識し、成長を感じ、次のステップに自ら進む。これをやっていくことこそが士心塾の存在意義だと感じたところです。

子を持つ保護者の皆さまにとって、何かしらのヒントとなりましたらそれ以上の喜びはありません。