色々人生と学び

大人の学びシリーズ その6 孔子に学ぶ2つの学問「道」と「芸」の考え方

-“孔子の教え”から紐解く-

本日の内容は、私がすごく大切に思う非常に重要な教育に対する考えになります。引用が多いですが、是非皆さまに知ってもらいたい内容なので、お許しください。

言志後録 第四条に下記のような記載があります。

「孔子の学は、己を修めて以て敬する事より、百姓を安んずる事に至るまで、只だ是れ実事実学なり。”四を以て教う、文行忠信”、”雅に言うところは、詩書執礼”にて、必ずしももっぱら誦読を事とするのみならざるなり。故に当時の学者は、敏鈍の異なる有と雖も、各其の器を成せり。人は皆学ぶ可し。能と不能と無きなり。後世は則ち此の学墜ちて芸の一途に在り。博物にして多識、一過にして誦を成す。芸なり。詞藻縦横に、千言立どころに下る。尤も芸なり。其の芸に墜つるを以てや、故に能と不能と有り。而して学問始めて行儀と離る。人の言に曰く、”某の人は学問余り有りて行儀足らず、某の人は行儀余り有りと学問足らず”と。孰れか学問余り有りて行儀足らざる者有らんや。謬言と謂いつ可し。

  孔子の学問は、まずみずからの修養に努め、人に接しては敬をを養い、これを広め万民を安らかにする事が目的であり、どれもが実際のことに即した実学である。「書物を学ぶ事、学んだ事を実行する事、真心を尽くす事、正直である事」の四つの事柄を説いている。そして「つねに言っていることは、詩経、書経の精神であり、礼記のとおり礼を守ること」であって、必ずしも詩を誦し、書を講ずることだけを専門としたわけではない。

だから当時の学問をした者は、才能の点で優秀な者とそうでない者との差はあったが、それぞれがその器を大成する事ができたのである。このように人は誰もが道を学ぶ事ができるのであって、人によって優秀とか、優秀でないとかのさがあるわけではなかった。

ところが後世になって、この孔子の学問は堕落して、芸の一つになってしまった。一度目を通すとすぐ暗誦するなどというのは芸である。詩文の才能があって、自由自在に千言のものも、たちどころに書き下すなどは優れた芸である。

このように学問が芸に堕落してしまったので、優秀とか優秀でないとかの差ができてしまったのである。ここにおいて学問は実践・実行から離れてしまった。そのためか、世間の人は「誰々は学問は十分にあるが、行動が伴わないとか、誰々は行いは十分であるが、学問は足りない」とかいうようになった。

だが、孔子の学問を修めた者で、学問が十分にあって合同がかけている者などあろうか。あるはずがない。世間の人の言葉は誤っているというべきである。

 

佐久間象山の言葉に、「学問に道と芸あり」というものがあります。道とは人格形成の道徳であり、芸とは食べるための術という事です。

どうしても現代の教育というのは、「芸」ばかりがフォーカスされ、良い学校へ進学するため、受験のための教育となっています。

しかし私自身、教育とは「芸」だけではなく、「道」も非常に重要な要素であり、この2つのバランスが取れた状態を作り上げる事こそが、本来ある教育だと思っています。

士心塾ではなぜ、昨年クリスマスに開催したような、400名規模の大きな会場で、生徒たちが自ら司会進行を行い、生徒たち各々がステージ上で発表を行い、また保護者への感謝の気持ちを述べるのか。

なぜ、自らの一年間の目標を、自分自身で定めたりするのか。

授業でもそうです。人に迷惑をかければ厳しく指導し、人を助けたらしっかり褒める。保護者の目を見ながら、よしよししながらやり過ごすなどということは絶対にしません。

このような事一つ一つこそが、士心塾が大切にしている教育要素であり、「芸」だけでなく、「道」も合わせて提供できる事こそ、士心塾が保護者の皆さまに提供できる価値だと思っているのです。