-言志四録から紐解く-
世の中には苦労をしなくても良い苦労と、あえて苦労を経験した方が良い苦労の2つが存在すると思っています。
例えば、楽しいキャンプで、ライターがあるのに、あえてサバイバル的な弓ギリ式火起こしをする必要はないですよね?あえてそのようなやり方をトライしてみたい場合は別ですが。。
例えば、食料品をカゴいっぱいに入れ、その値段の合計を知りたい時、計算機を使って良い場面で、あえて紙に書きながら頑張って計算する必要はありません。。
このようなものは、苦労をしなくても良い苦労です。
一方で、例えば、自らの能力を向上させたり、成長させたいケースの場合は、あえて苦労を経験した方が良いケースに当てはまってきます。
実は、士心塾の授業を受けている生徒の中でも、この苦労すべきケースの際に、どんどん自ら挑んでいく子と、逃げてしまう子がいます。
逃げてしまうとうはどういうことかと言いますと、例えばプログラミングの授業で、自分のプログラムが思ったように動作してくれない、思った通りに動作するまで試行錯誤して、根気強く粘りながら、頑張る事ができず、すぐに先生を呼び、わからない・・と匙を投げるような行為です。
これが個人個人で違いがはっきりと見えてくるのです。皆さまのお子さまは、どちらよりのタイプだと思われますでしょうか?
言志録 第五九条にこんな言葉が出てきます。
「凡そ遭う所の患難変故、屈辱讒謗、払逆の事は、皆天の我が才をを老せしむる所以にして砥礪切磋の地に非ざるは莫し。君子は当に之に処する所以を慮るべし。徒らに之を免れんとするは不可なり。」
人が出会うところの苦労や、予期せぬ変事、はずかしめ、悪口など、困ったことのすべては、天が自分の才能を成熟させようとの試練であり、そのどれもが徳を積み、学問を励ます糧となる。だから、立派な人になろうとしている者は、このような事に出会ったら、これをどう処理するかだけを考えるべきで、決して逃げたりしてはいけない。
これは子どもだけでなく、大人も含めて日々起こるすべての事に対して言えるのですが、それぞれに起こる苦労であったり、悩み、予期せぬ出来事など、困ったことのすべてが、成長するチャンス、きっかけだという事です。
このチャンスが訪れた時に、毎度逃げ出すような人間になってしまっては困ります。例えば社会人になり、就職し、仕事を始めます。何か嫌な事があったり、面倒臭い事があったら、すぐ投げ出したり、そこから逃げ出したり。社会で生きていくためには、粘り強くなければならないシーンは幾度とおとずれます。
だからこそ、壁にぶつかった時に、簡単に手を差し伸べるのではなく、限界まで自分自身の力でなんとかしようとする癖づけを行い、どうしてもサポートが必要になった段階で手を差し伸べる、こういった指導方針を、士心塾の授業では日々用いているのです。
どのような成功者であっても、初めから完成形として光り輝いているのではなく、みんな鍛錬のフェーズがあるのです。もちろんすべてのケースでうまくいくわけではありません。しかし、最初から、自らを下に見て、能力がないからとすぐ諦め、努力を怠るのではなく、粘り強く苦労に立ち向かい、努力してみる。これが人を成長させていくのです。
こういった事を書いている私自身も、まだまだ未熟です。今まさに鍛錬のフェーズだと思いながら、日々学びと努力を怠らないように毎日を過ごしています。